六櫻社 オプター 75mmF6.3改(パーレット用)


Optor75mmF63
歴史的銘レンズを台無しに

☆ジャンク度☆
貼り革はがれ
撮影可能


Optor75mmF63 Optor75mmF63
これが在りし日の姿。
この大正時代の芸術品を台無しに。

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 桜花をモチーフにしたロゴもレトロカッコいい。

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 精悍なリアビュー。
 日本語の被写界深度表が味わい深い。

Optor75mmF63
 さくらクロームを使いませう。

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 どうも前オーナーもレンズだけ取り外したのだろう。
 段ボール紙とゴム系ボンドのやっつけ仕事が親近感を持つ。

Optor75mmF63
 作業中の風景。
 純潔精神の高い方の悲鳴が聞こえそうだなあ。

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 スペーサーに手持ちの樹脂ボードを使ったのだが、半透明なのが難点。

Optor75mmF63
 別件で分解した海鴎のシャッター設定リングが上手く合う。


 大正時代と聞くと拙僧の世代が思い浮かべるのは「はいからさんが通る」である。アニメ版では独特の70年代少女マンガの韻を踏んだ演出が評価されず、打ちきりでサーシャ・ミハイロフ侯爵の亡命から関東大地震災がバッサリカットされているのが惜しい。これではラリサがタダの悪者である。少女マンガといっても、読者年齢層が比較的高かったのだが、当時はアニメといえば小学生が見るものであり、ハイティーンが見ると(少なくても埼玉の寒村では)一種の社会不適合者とされていた。ルパン三世も初期の大塚物は数字的に厳しかったようだ。
 そんな大正時代の代表的なカメラと言えば1912年に発売となったベストポケットコダック(以下、VPK)である。これは127判ロールフィルムを使う小型軽量・廉価なカメラで相当売れた。何ていったって、乾板カメラも現役の頃だから、折りたためばベスト(チョッキ)のポケットに入る携帯性は大きな長所であった。VPKは1926年まで販売しており、複数のモデルが登場している。最もプリミティブなのは1群2枚で固定焦点(パンフォーカス)のものだが、レンズのグレードも複数あり、フォーカシングが可能のモデルもあるようだ。我が国では「フード外し」というレンズの収差を利用したソフトフォーカスレンズとしての撮影が知れている。その幻想的な風景に魅かれた方は多く、多くのレンズが一眼レフカメラ用として改造の対象になった。また、有名な話としては清原光学は同じ構成の一眼レフ用レンズを発売した。似たようなレンズは複数のブランドで出回っており、この種のジャンルの人気が分かる。
 VPKはプリミティブなカメラだったから複数の模倣品というかインスパイアされた類似品が登場した。六櫻社の手による本カメラもその一つである。本カメラは国産のロールフィルムを使用するカメラとしては初、或いは極めて初期の物である。ある程度の高い精度の量産品を生産することが可能だったが、当初はレンズ・シャッターは自国産が叶わず、海外の物を輸入し自社ボディに組み合わせていた。ユーザの手持ちのレンズ・シャッターをカメラに取り付けるサービスもしていただろう。レンズもシャッターもグレードの違いがあるが、有名なのはウォーレンサック(Wollwnsak)の物である。これは単玉と3枚玉のデルタスを頻繁に見かける。同じ時期の乾板カメラのアイデアでも見かけるので、六櫻社ないし小西六が幅広く輸入していたのだろう。1932(昭和7年)あたりからレンズは自社製のヘキサ―(4枚玉)、オプター(3枚玉)を採用し、シャッターも国産化した。一方で単玉メカニカスレンズを搭載した廉価モデルも長く製造した。価格は初期の物で単玉が17円、デルタスが25円。特に単玉モデルの価格はVPKのローグレードのものより安く、平均的なサラリーマンが無理をして買えるギリギリのラインだったようだ。足かけ20年以上にわたって生産したカメラで多くのサブタイプが存在する。拙僧の個体だが、国産の3枚玉であるオプターが付いており、フィルムのセミ判撮影用の撮り枠が背面に存在することなどから、1933(昭和8年)〜1935年に生産した高級モデルだと想像できる。
                ☆           ☆
 拙僧も若い頃は純潔心が強かったから(このさい国際結婚の身分は置いておいて)アンティークカメラからレンズだけを取り出すのは抵抗があった。しかし、アラフォーにもなるし良識者の方々の小言が聞こえないくらい面の皮も厚くなったので蛮行に及んでいる。いや、拙僧もそのまま使えるのであれば何も分解はしない。ネットオークションでそれなりの価格帯で確保したブツが、どうにも完全ジャンクだったのである。外観がボロなのは大した問題ではないのだが、シャッターが切れない。裏から見るとレンズボードをボール紙で補正してあり、無動作にゴム系接着剤で張り付けられている。どうも、その取り付け角度が悪く、レリーズレバーがフレーム枠に干渉してシャッターが切れなかったのである。シャッター自体は生きているようで助かった。蛇腹も穴がそこここに空いているのだが、ビニール系の素材で自作したものに見える。どうやら、前オーナーもレンズユニットだけを取り出して使い、飽きたのでやっつけ仕事で組み上げて処分したのではないだろうか。そういう訳で、拙僧もレンズユニットだけを分解して使うことにしたのだ。
 レンズユニットは何と言ってもゴム系接着剤で張り付けただけだから簡単に、というかむりやり剥がすことが出来た。当初は手持ちのジャンクレンズの鏡筒を利用してフォーカシングを可能にしたかったのだが、意外とバックフォーカスが短く、手持ちの物では合う物が無かった。手持ちの複数の接写リングを組み合わせると、キヤノンのエクステンションチューブとプラクチカマウントの接写リングの薄い物を組み合わせると、フォーカス的にイイ感じなので採用する。少々オーバーインフなのと、接写リングの開口部がシャッターユニットとアンマッチなので下駄を履かせる必要になった。最初は加工のしやすさから樹脂製の板を採用した。この板の最大の特徴はシナるので、レンズを手前に押し込むと若干だがフォーカシングが出来るのだ。繰り出しは2mmほどだが、これで1(m)〜無限遠までそこそこ調整が可能である。ただ、困ったのが半透明の素材なので光線漏れが発生し、出来上がりのコントラストが低くなっている。次に採用したのはジャンクで分解した二眼レフの海鴎のシャッター設定リングである。これの開口部がレンズの後玉とフィットし、接写リングにもぴったりと合う。シャッター設定リングなのであちこちに穴が開いているのだが、これはアルミテープで塞いだ。樹脂製ボードではテープののりが悪かったのだが、金属製のシャッター設定リングとは相性が良い。フォーカスも丁度3〜5mあたりに合っているように見える。フォーカシングが出来なくなるのが惜しいが、そもそもが固定焦点(パンフォーカス)だから具合が良いと思った。接着は分解が容易のように強力両面テープを使った。安定性はイマイチで、見てくれもすこぶる悪いが、ひとまず使い物にはなりそうである。
                ☆           ☆
 本カメラにしろ、オリジナルのVPKにしろ、廉価と言っても大正時代から昭和初期である。都内の3LDKのアパートが5円だった頃の話だ。当時趣味としてカメラを個人で所有し、フィルムを定期的に消費できる方はかなり恵まれていただろう。女学生のはかま姿が街を賑わすのだって東京だからの特権である。拙僧の故郷の寒村なんて秩父事件が起こるようだから、当時の平民層の暮らしが知れる。地方では一部の旦那衆を除けばプロの営業写真家以外に趣味でカメラを嗜む方は稀だっただろう。
 貧しい生活と大きな戦争を切り抜けてきたカメラを分解してしまうのは暴挙とも思えるかもしれない。カメラにとってもレンズだけでも撮影できるのが嬉しいか、文物として飾られるのが本望なのか分からないが。拙僧としては元号を3つ跨いだ瞼に現在の風景を写しだすのも、悪くないと思うのだが。

 では、撮影結果を見て頂きたい。

(了:2012/5/22)

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